そもそもの発端はアルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が、CBSソニーから1981年3月21日にリリースされたことだった。 はっぴいえんどが解散した後に自身のナイアガラ・レーベルを主宰した大瀧詠一は、先鋭的であったがゆえに商業的な成功とは縁がなかった。 しかし『A LONG VACATION』がベストセラーになったことで、そこから一気にメジャーシーンに浮上したのである。 それから30年後の2011年の3月21日、特別番組『今日は一日“大滝詠一”三昧』が、NHK-FMで12時15分から24時までオンエアされた。 その番組では聴取者からのリクエストを受け付けて、全部で107曲もの作品が紹介された。 ただし自作を解説する予定だった大滝詠一は、10日前に起こった東日本大震災で出身地の岩手県が大きな被害を受けたことなどを配慮し、当日の出演を自粛した。 1976年に日本コロムビアと契約を結んだ際に、大瀧詠一は最新鋭の16チャンネル・マルチトラック・テープレコーダーを提供してもらうことを条件にした。 そのおかげで、それからの3年間は全部で12枚のアルバムを制作したが、苛酷なノルマに苦しんだという。 それでも地獄の責苦のようなハード・スケジュールをこなして、自宅そばに構えた「FUSSA45スタジオ」で大瀧詠一は音楽制作に没頭した。 日本語のロックを考え続けた帰結として『ナイアガラ・カレンダー’78』を完成させて、レコード発売したのは1977年の12月のことだ。 ところが、このアルバムはセールス的にまったくの不発に終わった。 そのことで音楽活動の前途に、暗雲がたちこめてしまう。 大瀧詠一は自著「All About Niagara」(2001年 白夜書房)で、その当時の心境をこう述べていた。 私本人としては、このアルバムが”最高傑作”である、と考えています。 出来上がりに関しては100%やり遂げたとは言い切れませんが、これ以上のデキが可能だったかに関しては自信がありません。 少なくても”アイデア”そのものはこれが”大瀧の極限(究極)”です。 (『ロング・バケ-ション』はこれと全く同じ”構造”を持っているのですが、それを理解してくれたのは山下達郎君を初めとする少数の人達だけでした) 時代の最先端を行くサウンドやアイデアも、セールスにはまったく結び付
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