今からもう50年ほど昔のことになるが、ある座談会をきっかけにして、”日本語のロック”について真剣な論争が起こった。 「ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか」 今になって振り返れば、その論争は歴史の必然だったということがわかる。 タウン誌の先駆けとなった「新宿プレイマップ」1970年10月号に掲載されたその座談会は、「喧論戦シリーズ②ニューロック」と題されていた。 いわゆる”日本語のロック論争”と言われたのは1971年になってからのことで、ロック批評を標榜する雑誌「ニューミュージック・マガジン」に発表の場を移した後になる。 しかし発端になった「新宿プレイマップ」の誌面からは、実に生真面目な話し合いだったことが伝わってきた。 座談会に出席したのは内田裕也、モップスの鈴木ヒロミツ、はっぴいえんどの大滝詠一、これを企画した編集者の中山久民。 そして1950年代後半から音楽ジャーナリズムで論戦を張っていた気鋭の評論家、相倉久人が司会を務めていた。 簡単に時代背景を説明すると、1966年のビートルズの来日公演後から”ロック”に目覚めたバンドが続々と誕生してきた。 それが芸能界によってグループ・サウンズ、すなわちGSとしてブームを巻き起こしたものの、人気が出るにつれて楽曲が急速に歌謡曲化してしまった。 そうした現象にあらがって“ロック”を目指すバンドが、ニューロックという言葉とともに登場してきた。 当初はGSのアイドル路線を目指して結成されたフローラルが、ニューロック路線を選んで腕の立つバンド・メンバーに声をかけて、細野晴臣と松本隆が加してエイプリル・フールとなり、英語詞によるオリジナル・アルバムを制作したがその典型だった。 ジャズの研究者としての立場からジャズが生まれる現場に立ち会うことで、時代状況を伝えていく発信者になっていた相倉久人は、1969年を境にジャズからニューロックへと関心の向きを変えつつあった。 「ニューロックが登場した時点が面白いと思うんだ。その前に反戦フォークの流行った時期があった。でも、そういう言葉による伝達ではもうダメなんだ。戦争反対という言葉にメロディーをくっつけただけで、考えを理解させるというオプチミズムが崩壊した後でニューロックが出てきた」 ロカビリー時代に歌手としてデビューした内田裕也はその後、自分は裏方にまわるようになって、GS
0コメント